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胡 瑛(こ えい)は、中華民国の軍人。雲南派(滇軍)の有力指揮官。民国初期においては、孫文(孫中山)を補佐した。字は蘊珊。なお、同じく中国同盟会に属し、後に籌安会の六君子の1人となった胡瑛は、同姓同名の別人である。 == 事跡 == === 初期の活動 === 雲南優級師範学堂を経て、雲南陸軍講武堂に入学し、特別班に編入された。また、この時に、中国同盟会に加入している。1911年(宣統3年)10月の昆明重九起義(辛亥革命)に革命派として参加した。 1912年(民国元年)3月、唐継尭に随従して貴州入りし、以後、黔軍において昇進した。護国戦争(第三革命)で軍功をあげ、1916年(民国5年)6月には黔軍第3混成旅旅長となっている。その後、黔軍の王文華の下で護法戦争に参戦する。1920年(民国9年)、唐継尭・王文華から、重慶衛戌司令に任命された。 同年に貴州で民九事変〔貴州督軍劉顕世らの旧派に対して、王文華らの新派が兵変を起こした事件。劉は貴州から駆逐されたが、王も後に暗殺されたため、貴州はしばらく混乱時期に陥った。〕が発生したが、胡瑛はこれに参加を望まなかった。1921年(民国10年)、胡瑛は孫文の援桂に参加し、援桂黔軍総司令に任命されている。この時、新広西派の李宗仁・白崇禧と良く連携し、交流が深まった。 しかし1922年(民国11年)、唐継尭の雲南復権に際して谷正倫による孫文への讒言があり、胡瑛は孫から猜疑されてしまう。胡は、やむなく雲南へ戻り、一時引退した。その後、唐の下で佽飛軍〔親衛隊の意。〕第4軍軍長兼雲南憲兵司令として復帰している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡瑛 (雲南)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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